或る農民の娘 4


「…おい、どういうつもりだよ?」
苦虫を噛み潰したような声の主に、レムオンは軽く眉を上げて応える。
「王宮へ行く、と言っただろう。薄汚れた格好で参内させる訳にはいかん」
「…薄汚れ……」
青年の言い様に絶句した相手――サファイアは、貴族男子の装いであった。

ノーブルの反乱劇から早や数日。
王都ロストールに到着したレムオンは、説明抜きで少女をリューガ邸に連行した。急ぎ王城へ上がる為――手始めに彼女を湯沐へ放り込み、身丈に合うドレスが無いので弟の古着を用意させ、自らの着替えを手伝う執事には掻い摘んで事情を話して。
「何とか、見られる姿になったな」
用意させた馬車に揺られながら、頷くレムオンに、サファイアは思い切り顔を顰める。
「みすぼらしい農民で悪かったな。けど大体、何でこんな服を着せる?」
「どの道、ドレスは嫌がると思ったのだが?」
そっちじゃない、と舌打ちしそうな口調でサファイア。
「反乱の首謀者として突き出すのに、小ぎれいなカッコさせる必要があるのかって訊いてるんだ」
その言葉に、今度はレムオンが目を見張る番だった。
「俺がいつ、お前を突き出すと言った?」
「…あんた、私を連れてきて利用するって以外に、何も説明してないんだけど?」
そうだったか、と再び頷く彼の表情を見て、
(…この人、解ってて言ってるな…)
サファイアはこっそり毒吐く。

強行軍の中で、彼女に判ったのは、目の前の青年との相性がすこぶる悪いらしい事だけだった。無駄な会話は殆どなかったが、その数少ない台詞がいちいち癇に障る。高圧的な態度が鼻につく。何より、それらの行動が理に適っているのが腹立たしい。
…だが、口下手な上に、彼に比べて猪突だと自覚があるサファイアは、早々に論破を諦めていた。…どの道、王城に行けば、牢屋入りか処刑かで彼から離れられるのだから。

「そうだな…少し話しておくか。何しろ、今から会うのは雌狐エリスだ。ボロを出されては敵わん」
「…ちょっと待て。あんたもボルボラも、エリスエリスって言うけど、それ王妃様の事だろ?」
「ほう、知っていたか」
「そりゃあ…有名だからね」
サファイアは言葉を濁す。王都近辺ならともかく、農村部の人間――つまり国民の殆どは、国王家族のファーストネームなど知らないのが普通だ。しかし、ロストール王妃エリスは別格である。稀代の謀略家という――あまり好意的でない評判で、国外にまで名を轟かせているのだから。
「相当怖いって噂だし、ノーブルの事件も王妃様の罠なんだろ?……けど、何で王様の話は一言も出てこないんだよ」
物語では、悪い命令を出すのは国王と相場が決まっている。そもそも女性が表立って職に就く事――店を経営したり、仕官したり――を快く思わないロストールで、妃にそんな力がある筈も無い。そう考えたサファイアに、だがレムオンは首を振った。
「生憎、今の国王は政治に関心が無くてな。それをいい事に、あの女が国政を牛耳り、その権力をファーロス家へ集めようとしている」
「ファーロス?」
「雌狐の生家だ」
…それから延々、王宮の門衛に導かれて馬車が止まるまで、レムオンの講釈は続いた。
「…つまり、エリス様はあんたの敵で、他にも色々仕組んでるかも知れないから気をつけろ、と」
うんざりと返す少女に、「分かればいい」とレムオンは頷く。
「決して、余計な動きをするな。口を挟むな。すれば即座にお前を斬り捨てて、ノーブルのお前の弟達も処罰するからな」
道中何度も繰り返された科白を、聞き流しながら外を見遣り――王城の威容に息を呑んだ。
(……凄い………)
余剰の作物を売りに来た時、平民街から望んだ事はあったが、間近に見るのは初めてだ。
ノーブルにあった領主邸とは比較にならない巨大さ、真っ白な壁や彫刻の美しさ、統制のとれた兵士達――それらに圧倒される暇を、しかし青年は与えない。
「行くぞ」
さっさと馬車を降りる彼に、慌てて追い縋る目の端、門衛達の驚く表情が映る。城に入れば、更なる衆目が集まった。…予想はしていたものの、煌びやかな空間で視線に取り囲まれるのは、農村育ちのサファイアには、かなり堪える。
それを見て取って、レムオンがフン、と鼻を鳴らした。
「怖気づいたか?」
「………っ、冗談」
途端に蘇る反発心、それを身体に溢れさせ、男装の少女は毅然と前を見据えた。
(この人の目的が何だろうと、思いどおりになってなんかやるもんか)
瀟洒な内装や人々の囁きに目もくれず、真っ直ぐに歩を進めるサファイアを、ローズグレイの双眸がじっと見下ろしている。



「――お待ちしていた、エリエナイ公」
前もって使者でも立てていたのか、リズミカルな程の勢いで通された大広間。既に幾人かが集まり、正面の壇上には国王夫妻が座していた。その片方に、サファイアの目が惹き付けられる。
――あれが、エリス王妃。ボルボラを操った人。
入口で一瞥をくれて以後、彼女には目も向けない王妃の美貌は、笑みを湛えてはいても冷たさを感じさせた。
(…あの人が、私の村を……)
燻る怒りに奥歯を食い縛ったサファイア、その耳をレムオンの口上が通り過ぎる。意外なことに、反乱の文字は一言も出なかった。ただボルボラの死が伝えられただけ。
(伏せとくつもりか?…けど、ならどうして私を連れてきたんだ?)
ちら、と見遣った青年の表情は、金髪に遮られて伺えない。
訝るサファイアの視界に、王妃が何か、手紙の様なものを翳すのが映った。
「ボルボラに問い質したい事があったのだがな……そなたの部下が、先代のエリエナイ公から女性に宛てられた手紙を、送りつけてきたのだが?」
「女にですと!?」
叫んだ男――玉座に一番近いという事は、恐らく宰相か何かだろう―-が、王妃の手元へ駆け寄るのを見て、サファイアは血が凍り付く思いがした。

(…女、ですって? ノーブルの話には何も反応しなかったくせに)
――たかが領主の浮気事が、一つの村の苦しみより――農民たちの命より、大事だなんて。

(こんな人達の為に、私達は麦を作ってたの? あんなに苦しい思いをしたの?)
分かっていても、実際に目の当たりにすると、現実はあまりに理不尽で――掌に爪を立て、必死に怒りをやり過ごすサファイアは、だから壇上の興味深げな視線に気付かなかった。
レムオンの返答すら耳に入らず、その中の自分の名前で、やっと我に返った次第である。
(…って、今「妹のサファイア」って聞こえたよね? もしかして、私と同じ名前の妹でもいるの?)
だからあの時殺さなかったのか、と勝手に納得した矢先、
「此処に連れてまいりました」
と言われて、今度は血だけでなく全身固まってしまった。

意表を突かれたのは、王妃達も同じだったらしい。
「…エストの他に、弟妹がいたとは、初耳だが?」
唖然とした感の言葉に、「訳あって公にはしておりませんでした」と飄々と答えるレムオン。
…それでようやくサファイアも理解した。つまりこの男は、彼女を、父親の浮気の末に出来た子どもに仕立て上げるつもりなのだと。
(冗談じゃない!! 聞いてないよそんな話ッ!!)
思わず一歩踏み出しかけたサファイアを、レムオンが、ごく自然な動作で振り返る。
「その訳は――口にせずとも、お分かりでしょう」
身体の陰で、ちらと帯剣を覗かせながら。

刹那、少女の耳に蘇る言葉。
――余計な動きを見せたら、お前を斬り捨てて、ノーブルの弟達も処罰するからな。

(………っ、こ…んの卑怯者ーーーっ!!)
…王の御前で抜刀などすれば、レムオンの方こそ処刑されるのだが、農民の娘がそんな事情まで知る由も無く。胸の中で絶叫する少女を他所に、青年は慇懃に「ノーブルを平定する為、何卒妹に爵位を」などとのたまっている。
「ならん、ならん! ふざけた事を!!」
(そうだそうだ!!)
恐らく生涯ただの一度であろう意見の一致を、図らずも得た宰相とサファイアだが、
「…陛下、どうかこの者に伯爵の称号を」
という王妃の言葉に絶句した。
――有り得ない。この国では、女は伯爵はおろか騎士にさえなれない筈。
「うむ…王妃がそう言うのであればな」
(ちょっと待てェっっ!!)
その有り得ない展開に、愕然とするサファイアへ、やはり戸惑った表情の典礼官が近付いて小さな盾を押し付ける。いざ手に持つと、男子の、それも実は結構な礼装を纏った彼女は、なかなか見栄えがして、広間のあちこちで感嘆の息が洩れた。
「騎士の証たる盾だ。正式な叙任の日取りは、追って定めるとしよう」
「サファイア・リューガ。そなたをロストール王国の伯爵、そして特別に、白竜騎士に任ずる」
壇上の王妃と王、それぞれの言葉を、サファイアは何処か酷く遠い所で聞き。
その代わりにレムオンが、優雅に笑んで膝を付いたので。
…竜綱に反したロストール初の女騎士は、かくもあっさりと、誕生してしまったのである。



「――聞いてないぞ、ンな話ッ!!」
「言えば、貴様は逃げ出すに決まっているからな」
「当たり前だ! 何であんたの妹にならなきゃいけない!!」
宮中でひたすら耐え、馬車に乗り込めば舌を噛みそうなスピードで帰宅、降りた途端に屋敷中の使用人に恭しく出迎えられて、ようやくサファイアが怒鳴れたのは居間に着いてからだった。
――冗談ではない。村を苦しめてきた貴族の、しかもこんな根性悪の気取り屋の、おまけに妾腹で生まれた妹になるだなんて。
怒り心頭の彼女に、しかし、
「本来なら処刑される筈だったのだ。それくらい耐えろ」
とレムオンはにべも無い。余程「死んだ方がマシだ」と言い返そうとしたが、相手は生憎、自分の弟とノーブルの生殺与奪権を握っている領主である。自分が死んだ後に何かされたら堪ったものではない――ボルボラの件もあり、サファイアは目の前の男を、まるきり信用出来ないでいた。
仕方なく背けた顔の前、ずい、と今度は袋が突き出される。
「報酬だ。お陰で難局を切り抜けられた。礼を言う」
殊勝な言葉に一瞬耳を疑って、それでもサファイアは栗色の頭を振った。
「別に、あんたの為にやった訳じゃない。そんなの貰う謂れは無いよ」
そう言って押し戻そうとし――次の科白で肩をこけさせる。
「…金も持たず、身一つで村を出ておいて何を言う。これで少しはまともな装備を整えろ」
「…ちょ、ちょっと待て。普通そういうのって、その、えーと……い、家にあるのを使わせるもんじゃないか? この服みたいに」
それは嫌そうに“家”と口にした彼女に、レムオンは呆れ顔だ。
「お前が此処の厄介になるのを拒むと思って、わざわざ“報酬”という形にしてやったのだが? 何なら構わん、雌狐顔負けのドレスでも、鎧でも軍馬でも―――」
「有難く使わせて頂きますよっ!!…くっ、絶対倍以上で返してやる………」
もぎ取った金貨袋を片手に踵を返す、負けず嫌いの少女。それに青年はふ、と笑う。
「とにかく、これでお前はロストールで1,2を争う大貴族の一員だ。…いつでも帰ってくるがよい。我が妹サファイアよ」
…青年の意匠はどうあれ、今の彼女にその言葉は、相手が兄でしかも家長だという力関係を念押しするようにしか聞こえなかった。
「――ふざけんな! 二度と来るかっ!」
ドアの前で振り返ったサファイアの言葉に、レムオンが形の良い眉を吊り上げる。
「ほう、金を返すのではなかったのか?」
「……………!!」
バタン、と力任せに閉めた扉の向こう、玻璃を砕くような笑い声に、蹴り上げたい気持ちを堪えて、サファイアは足音荒く居間を後にした。



(全く…、退屈させん女だ)
ひとしきり笑って、レムオンは肩を竦める。
単純で、腹の底を探る必要が無い相手――それが宮廷の貴族なら、彼は歯牙にもかけまい。しかし、彼のよく知る権力と富に濁った目と、彼女の眼差しはまるで違うのだ。真っ直ぐにぶつかってくる、屈する事を知らない、あの瞳。
濃い色の輝きに既視感を覚え、レムオンはふと瞼を閉じ、記憶を手繰る。
(…ああ、そうか、恵みの大地の色だ)
古代、大河のほとりの王国は、年に一度氾濫に見舞われた。上流から肥えた養土を運んできた。毎年同じ日に起こるそれを、民達は神より賜りし恵みと受け取ったという。

(…天が遣わした、この世界で最後の女神……)

大げさな、と首を振るレムオン。だが妄想では片付けられない何かを、彼女から感じるのも事実。明確なもの、形あるものではないが――そう、例えば限り無い可能性のようなものを。

「…不思議な女だ」
目を引く容姿とは思えなかった少女――彼は宮廷で美女に見慣れている――が、身なりを整えた途端、凛として見えたのも驚きだった。騎士に叙任され易い様にと意図した男装だが、宮廷でもかなり人目を引いていた。女らしく着飾れば、視線は更に増えるだろう。
…余計な厄介事が増えるかもしれない、とこめかみを押さえながら、それでも青年の口元は、あるかなしかの笑みを漂わせている。
「…ふ、まあいい。奴が居れば、こんな毎日でも脳が腐らずに済みそうだ」
息を吐き、上げた顔は既に、冷血の貴公子と謳われるそれ。
ひと波乱あるであろう元老院会議と、何より激化の間違いない政争に備えるべく、若きリューガ家当主は執務室へ向かった。




 


      SS目次     終章