或る農民の娘―終章と、旅の始まり― 


「――やあ、サファイア! やっと追いついたよ」
洗って乾かされていた服に着替え、リューガ家を飛び出したものの、剣と盾とたった500ギアでどうしたものか。
広場で考え込んでいたサファイアの耳に、聞き覚えの有る声が届く。

エスト君、とベンチから腰を上げる少女に、駆け寄ってきた美少年がにっこりと笑い――だが急に済まなさそうな表情を作った。
「ごめんね。びっくりしたでしょ? 兄さんにいきなり連れて行かれて」
「…兄さん…? え、まさか」
嫌な予感に、サファイアの顔が強張る。それにエストはあれ、と瞠目した。
「兄さんってば、僕の事話さなかったのかな…。僕もリューガの人間なんだよ。エリエナイ公レムオンの、弟なんだ」
「………似てない………………」
「ああっ、ご、ごめんね! そんなにびっくりした?」
サファイアがぺしゃん、と地面にへたり込む。慌てるエストに首を振り、もしかすると自分はリューガから逃れられないのでは、という恐ろしい妄想も、一緒に振り払おうとした。…あまり上手くいかなかったが。
「君の村で、事後処理をしてきたんだ。弟くんも、怪我した皆も無事だよ。…君が“処刑”された事も、納得してもらった」
その言葉に、怒りも何もすっと冷える。
「……じゃあ、本当にもう、あの村には帰れないんだね……」

もう帰れない。
その思いは、想像以上に彼女の胸を貫いた。

先にレムオンから、伯爵号は名目だけで、実際統治するのはレムオンだと聞かされている。
血の繋がらない農民である事が王妃にばれれば、自分達も、王国の支配に楯突いたノーブルの立場も危うくなる、だから自重しろ――とも。
…それ以上に、村に戻る気持ちに、サファイアはなれなかった。
(だって、どんな顔をして皆に会えばいいの?)
また同じ事が起こるかもしれないと――王妃とレムオンが争う限り、あのちっぽけな村は翻弄されるのだと、知った今になって。
知らなかったとは言え、それを煽る形になってしまった自分が。

…しかし、本当に帰れなくなってしまうと。
畑仕事から当たり前に帰っていた、あの小さな家や。
友達や。
村人や。
蜂起に反対した人々――長老の顔さえ、胸を締め付けてくる。
(……チャカ…………)
呼べば、麦穂の間からひょこっと顔を出した、可愛い弟の笑顔。
その下でさざめく金色の波。

「……大丈夫だよサファイア。ノーブルに帰れなくても、僕達が居るじゃない」
口を噤んでしまった義妹に、エストがそっと声を掛ける。
「今日からは、僕達が君の新しい家族だ。さ、立って――君にそんな迷子みたいな顔は似合わないよ。初めて会った時みたいに、真っ直ぐに笑って?」
腕を引いて立たせながら、「ああ、そうだ」と顔を輝かせた。
「君の元気が出そうなお話をしてあげるよ。ねえ、“猫屋敷”って知ってる?」





長兄とはまるで正反対に優しい次兄を見送って、ふとサファイアは、掲げた己の手を眺める。――鍬と剣を握り慣れた手。でも手繰り寄せるべき運命を逃してしまった、小さな手。
(なのに、“運命に選ばれた者”だなんて……)
エストが話してくれたのは、此処よりずっと北にある、選ばれた者しか辿り着けないという不思議な場所の事だった。その噂に、彼は真っ先にサファイアの姿が頭に浮かんだのだと言う。
無茶苦茶だ、と思いながら、それでも微かな高揚は隠せない。素直な嬉しさと、3年もの間、自分達を見捨て続けた、運命とやらの顔を見てみたい――そんな少し意地悪い気持ちと。
(でも、旅なんて私に出来るのかな…?)
ノーブルさえ、滅多に出た事の無いサファイアだ。分断の山脈より北など、話に聞いた事しかない。件の場所に近いというエンシャントも。
(何だっけ…ディンガル帝国の首都で、大きくて、港もあって――)
――港……海。生まれて初めての海。

不意に、あの綺麗な蒼をした少年を思い出す。
(…海って、あんな色かな。海風ってあんな感じかな)
感じた事の無い筈の風が、爽やかに体を駆け巡るので。
(――行って、みようか)
…まるで、導かれる様に。





通りで見つけた冒険者ギルドに登録して――何が何でも、貴族には頼りたくなかった――王都を出る間際、ふと南を望む。
帰る事の叶わない、故郷。

「…ひとつ、弱者への敬意と、憐れみと、彼らを擁護する心を持つこと」

王城での簡単な叙任式で、一番胸に残った言葉が、口を衝いた。
(…私が、騎士なら。この国の白竜騎士なら)
それならば、真に守るべき弱者は、ただ一つ。

父の形見の剣を抜き、正面に構えて、サファイアは誓う。
――自分が命綱だというのなら、自分が、あの村を守り抜こう。
あのちっぽけな村を。
貴族達の下らない政争から。
…しかし、それだけの力が、まだ自分には無い。
(だから、もっともっと強くならなきゃ――………)

強くなりたい。誰よりも強く。
誰にも負けない位、泣かずに済む位、…独りで生きていける位、強く。
そしたら、その腕で絶対、皆を守ってあげるから。

「……だから、行くね」

瞼の裏で、弟の笑顔が滲むのを、強く瞑る事で留め。
踵を返したサファイアは、北の大地へと踏み出した。





バイアシオン大陸――人と、人ならざる者とが、各々の生を営む世界。
その南部で起きた、ちっぽけな村の反乱が、奇しくも二人の冒険者を生んだ。
反乱を率いた、或る農民の娘は、いま1人の存在を知らず。
己を待つ運命も知らず。

只、風にそよぐ黄金色の思い出を胸に、歩み始める。




 


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