或る農民の娘 3


(………?)
手の平に食い込む爪の痛みを、サファイアは訝った。――死んでも痛覚は残るのだろうか? 斬られた痛さは感じないのに。
「――紙一重で斬ったとは言え、少しも動じぬとは…いい度胸だな」
聴覚まで残っている事に、眉根を寄せ――開いた視界には、双剣を下ろした男の姿。身を縮めていたチャカが、驚いて顔を上げる。
「…どの道、反乱の報告は王妃に行った。こちらも手を打たねばならぬ」
些か乱暴に剣を納め、レムオンはチャカに向き直った。
「今回の事件の責任をとって、貴様の姉には処刑された事になってもらう。村の連中の口を封じる為だ。――これから、表の奴らに公表する。貴様が証人になれ」
は、と眉を上げる少年から、やはり瞠目した少女へと視線を移し。
「お前は、俺と一緒に来い。王都へ向かう。どうせ死ぬならもう一働きしても損はすまい」
「…王都って…嘘だろ? 姉ちゃんをどうする気だよ!」
…どうやら命は留めたものの、姉を連れ去られると知ったチャカが抗議の声を上げる。だが領主はきっぱりと無視した。
「明日の早朝にここを出る。今日はもう休む事だな」
「行くぞ」と目だけで弟を促し、サファイアに背を向けた青年は、だが、扉の前で振り返った。付いてこようとしないチャカに双眸を眇め―――フン、と息を吐く。
「…今生の別れだ、少し時間をやる。なるべく早く済ませろ」
「………っ」
ギリ、と歯を食い縛るチャカの前、引き絞られた金髪が煌く。実りの時期の畑に似たその色が、今は姉弟を切り裂く刃に思えて。それがドアの向こうに消えたと同時、堪らずダン、と壁に拳を叩きつけた。
「クソッ! こんな事あっていいのかよ! なあ、姉ちゃ…」
振り向いたチャカは、そのまま言葉を途切れさせる。視線の先、先程から一言も発しなかった姉は、あまりに悄然としていた。首を振る仕草さえ力なくて。
「…いい。誰も死なないなら、それでいい。ボルボラも、もう…居ないもん」
ゆっくりと零れる言葉が、初めて聞くほど頼りなげで。
「…姉ちゃん……」
掠れた呻きに、サファイアの肩が震える。

――これでいいんだ。
――村を守れた。チャカを守れた。だから、いいんだ。

息を一つ呑み込んで、少女は毅然と顔を上げた。思い切るように項へ手を伸ばす。
「これを、付けて行って。そうすれば皆、私が死んだって信じるだろうから」
首から外したそれを掲げ、辛うじて微笑んで見せる。質素な石の首飾りは、父よりずっと前に死んだ母親の、形見だった。いつも身に付けていた唯一の装飾を、弟の首に巻いて、
「――――」
…そのまま、背の高い弟を抱き締める。強く、強く。
「…姉ちゃ…っ」

――両親を亡くしてから、ずっと二人で生きてきた。小さくて、泣いてばかりだったこの子は、今ではこんなに大きくなった。
「…あのね、チャカ。あんたね、…お父さんにそっくりだよ」
記憶に残る、広い背中――逞しくて快活な父。死の間際に「チャカを立派に育てる」と約束した。それだけが、幼い、身寄りも無い彼女の支えだった。
(約束、守れたよね? 父さん………)

「私の、自慢の弟だ。――あの家も、あの畑も、守れるね?」
今にも泣きそうな顔を両手で挟み、力強い笑みを見せるサファイア。それに弟は唇を震わせ、だが結局引き結ぶ。こくりと頷く頭をもう一度抱き寄せ、元気で、と囁いて体を離した。
「行くんだ。…私なら、大丈夫だから」

部屋を出る弟の背中を、サファイアはじっと見つめる。脳裏に刻み込むように。
(――これでいい。チャカも、この村も無事で)
僅かな所作も見逃すまいとする栗色の瞳が、どんなに痛々しいか、自覚も無いまま。
(だから、いいんだ……)
音を立てて、重い扉が閉まる――。
「………っ」
刹那、膝が崩れた。――いい、筈なのに。

(何で、今更…涙が出るの……?)

自由な、明るい村に戻したかった。チャカとあの畑を守りたかった。その為なら怪物も、反乱の後の処刑さえも怖くない――そう自分に言い聞かせて。

「……っ、う………」

片方の手の甲で嗚咽を押さえ、もう片方は血に濡れた絨毯を握り締める。
怖くない―――筈がなかった。毎日、死の恐怖に晒されて。反乱に反対する村人の、冷たい目と苛立った言葉に、何度も挫けそうになって。それでも、ボルボラさえ倒せば、何かが変わると信じていたのに。
(遠い街に住む貴族達の、お遊びだったって、言うのか…?)
圧政は貴族達の仕掛けだった。耐えかねての暴動さえ、計画の内だった。政争が続く限り、この村は――農民は翻弄されるままなのか。
(そんなの…それじゃ私達、何の為に闘ってきたの……!)

不意に、窓の外で勝ち鬨が響いた。チャカとレムオンが村人の前に出たのだろう。
ずっと聞きたかった筈のそれに、思わずサファイアは耳を塞ぐ。それでも音は流れ込んでくる――否―、唐突な沈黙。嘘だ、との叫び――それもまた鎮まって。
…やがて、啜り泣く声が小波のように押し寄せるに至って、少女はとうとう床に身を投げ出した。

――負けたのだ、自分は。圧政を覆すつもりで、結局石を投じる事も出来ぬまま…そうして、ロストールに連れて行かれる。
悔しくて堪らなくて、それ以上にこの村と―――大切な弟と引き離されるのが嫌で。
(そんなの嫌だ、嫌だよ…! チャカ…みんな……!!)

翳る陽と、血の匂いと、自らの名を呼ぶ泣き声の中。
サファイアは、父親が死んだ日以来の慟哭に、身を任せていた。





パチパチ…と爆ぜる薪を眺めながら、2人の旅人は黙して語らない。
(…不満は山ほどあろうに、何も言わんのだな…)
レムオンがちら、と視線を投げた先には、膝を抱えるサファイア。領主の館でまみえて以後、この少女は一言も発していない。村を出るときも、野営の準備をする時も、ただ頷くだけ。
(夜明けまで休ませなかった事を、怒っている訳でもあるまいが…)
反乱の首謀者の死を公表し、喧騒が静まった夜半過ぎ、今度は地震が起きた。お陰で、皆が驚いて家から出る前に、ノーブルを抜け出す羽目になったのだ。
(…反乱に反逆に、今度は地震か。立て続けに忙しいものだな)
――その原因の一つは、この栗色の髪の少女なのだが。
「全く、よくあのような無謀な騒ぎを起こしてくれたな」
ふう、とレムオンは嘆息して、虚空を見上げる。何時しか、星の並びは秋のそれへと移っていた。――父の死で当主の座を譲り受けたのが、2年前のちょうど今頃。10代から宮廷に出仕していたとは言え、役職や大所領の引継ぎに追われて、小さな村にかまけられなかったのは事実だが。
「ボルボラが赴任して、たかが3年だろう。もう少し辛抱出来なかったのか」
「………たかが、だって?」
低い声に、レムオンが視線を戻すと、炎もかすむほどの怒りを宿す瞳にぶつかって。瞬く間もなくその相手がダン、と地面を叩く。

「そのたかが3年の間に、どれだけ人が死んだと思ってる! あいつの嫌がらせで畑はつぶされる、残った麦もこの悪天候で育たない! 僅かな収穫は全部あいつに持っていかれて、それでも足りないからと罰を受けるんだ!」
――飢えて、小さい子から死んでいった。村外れの墓地は、墓石も間に合わず、木の標が乱立した。ささやかな村祭りも、持参金や祝いの品が無い為に婚姻すらも、ボルボラが来てから一度も行われていない。
「今年の夏に、また不作の兆候が出て…」
発育の遅れた大麦の葉に、斑点を見つけた日を思い返し、サファイアはぎり、と奥歯を噛む。――あの瞬間、蜂起を決めたのだ。
「…3年あれば、荒地だって緑が生える。逆はもっと早いんだ。その間に、あんた達貴族は何をした!?何度あの村に来た!? ノーブルで何人が、あんたが領主だと気付いた!!」
激昂と言うより、寧ろ悲鳴だった。血の滲むような叫びに、レムオンはただ言葉をなくしている。
「例え処罰されようと、あんな事でもしなきゃ、誰もあのちっぽけな村を省みないじゃないか!!」

…秀麗な顔を睨む部分に、熱いものを感じて、サファイアはつい顔を逸らす。涙を堪える内、彼の前で声を荒らげるのは初めてだと気付いた。
「………悪い。あんたの所為じゃないよな」
(領主が、代官に土地管理を任せるのは当たり前で。ボルボラの横暴は権力抗争の為で)
怒鳴って悪かった、と呟いて、また炎に向かう少女に、レムオンはだが呆気に取られたまま。
――女性に正面から食って掛かられるなど、初めてなのだ。彼に関わる女性は、しとやかさの裏に角を隠したか、従順かのどちらかだったから。
(変わった女だ…)
今日、幾度目かの感想を胸に上らせながら、改めてこの農民の娘を観察する。――女性らしくもない、短く切り揃えられた髪。陽の下で働く者らしい少し焼けた肌(それでも男よりは白いが)。帯剣さえしてなければ、小柄で痩身で、街中でもそう目立つことはなかろう――しかし。
(違いは…あの、目か…)
いっそ苛烈なほどの眼差し。怜悧といわれる彼の前でも怯まない――ボルボラの館で、死の覚悟を決めた彼女が瞼を閉ざした時――この輝きを二度と見られないと思った時、確かに殺す筈であった切っ先を、ふと躊躇ったのは。
…感傷に傾いた頭を、軽く振る。――理由はどうあれ、生き残らせてしまったのは事実。せめて有効に使わねばならない。一つしか策が思い付かないのは、我ながら情けないが。
(…だが、それを実行するにも、あの格好はどうにかせねばな)
邸宅に丁度良いものがあっただろうか、と少女の身丈を目測する内、それが一層縮こまったので、レムオンは自らの失念に気付いた。旅装の彼に比べ、着の身着のままで村を出たサファイアは、あまりにも薄着だ。
もう一度息を吐いて立ち上がると、レムオンは外套から腕を抜いた。膝に顔を埋めた少女の肩に、ばさ、と被せる。
「…着ろ。夜明け前は冷える」
驚いて相手を見上げた少女は、皮肉気な笑みを浮かべた。
「農村の人間は、これ位慣れてる。あんたこそ、外で寝た事無いだろう?」
その言葉に、レムオンが肩を竦めただけで踵を返したのは、炎に照らされた少女の目が酷く赤く見えたから。
荷を整える彼の背中に、ありがとう、と微かな声が届いたのを最後として、両者は再び口を閉ざす。

ロストールの空に陽が上るまで、まだ、僅かに間があった。




 


     SS目次