或る農民の娘 1


「リベルダム製の戦闘モンスターか…。何故、こんな所に?」

――今日は、よくよく助けられる日だ。
濡れた前髪をかき上げながら、サファイアは声の主を見遣る。二本の剣から化け物の体液を振り払い、両脇の鞘に収める青年を。
「あんた、旅人か? ここの事知らねえんだな。…こいつは、ここ代官のペットなんだ」
サファイアの傍らの声に、青年が訝しげな顔で振り向いた。
「かなり高価なものだぞ? 代官程度が出せる額でもあるまい」
「かもな。けど、ここはリューガ家の領地だ。ノーブルなんて小さな村、貴族のボンクラ領主は見ちゃいない。それをいいことに奴はやりたい放題なんだ」
そう言って、少女の弟――チャカが足元の小石を蹴る。彼ら3人が立つ麦畑は、モンスターの蹂躙で痩せた土の面を晒していた。
「俺達に重税をかけて、貯めこんだ金であのモンスターを買ったのさ」
眉を上げた青年が、サファイアを見る。胸に苦味を覚えながら、彼女は頷いた。

ロストール王国の政治は、王家と貴族が執り行っている。
その中でも最大勢力に属するというリューガ家は、領地の一部であるノーブルを、三年前からボルボラという代官に任せていた。これがとんでもない男だった――領主に無断で税を倍以上に上げ、住民達を虐げる。今日も、村人の収穫間際の畑に、家より巨大なナメクジ型の化け物を放ったのだ――私腹を肥やすというより、人間の苦しむのを楽しんでいる様にすら思える。
悲鳴を聞いて駆けつけたものの、自分達より遥かに強大な敵に梃子摺るサファイア達姉弟に、助太刀してくれたのが、この旅人だった。

「――だけど、ご自慢の戦闘モンスターをやっつけた今、奴の天下も終わりさ!」
明るい声に、少女は隣に立つ弟を見上げた。希望に溢れた表情にぶつかる。
「このことを聞いたら、みんなきっと喜ぶぜ! ボルボラを倒すのは今だって!」
「――チャカ!」
「…“みんな”?」
声を殺しての制止も間に合わず、旅人がローズグレイの瞳を狭める。あ、と息を呑んだチャカが青年を見、慌てて姉に囁いた。
「…な、なあ姉ちゃん、この人は腕も立つし、仲間になって貰おうよ。一緒に森に来て貰おう」
駄目だよ、と小さく首を振るサファイア。そこに低い声が掛かる。

「…女、大体は察しがついた。その代官を倒す相談か」

「………」
強張った顔で振り返ると、旅人がひたと少女を見据えていた。
「村外れの森で会合か。…俺も出させてもらおう。いいな、女?」
相手の返事も待たず、束ねた金髪を揺らして背を向ける彼。
「…おい! 女、女って呼ぶな、姉ちゃんにはちゃんとサファイアって名前がある!」
むっとしたらしいチャカの口調に、足を止め。幾分穏やかな声で青年は告げた。
「それは失礼した…サファイア。俺の名はレムオンだ」

先に行く、とレムオンが立ち去った後の畑で、姉弟は顔を見合わせた。一方はほっとして、他方は険しいままで――姉の表情に「ごめんってば」と手を合わせ、チャカは気を取り直すように声を上げた。
「とにかく、予定より早くナメクジがいなくなったんだ。早く皆の所へ行こう!」
「…そうだね」
弟の笑顔に、サファイアも目の光を緩める。――あれさえ倒せば。その後は計画済みだ。
すう、と呼吸を改め、強気な微笑を浮かべて頷く彼女。
(…姉ちゃんがこの顔すると、何か、安心するんだよなあ)
無口だが、不思議と周囲を惹きつける自慢の姉を見下ろして、チャカは一人ごちた。
…僅か数時間後に、それが失われる事など、この時の彼は知る由も無かった。





「あの…ちょっといいかな?」
用心の為、一旦弟と別れて会合場所に急ぐサファイアを、不意に呼び止めた声。
きょとんとする彼女に、細面の美少年が歩み寄る。
「僕、兄さんを探してるんだ。金髪で背の高い旅人を見なかった?」
やはり金色の髪を肩に届かせた相手に、サファイアは首を傾げた。咄嗟に浮かんだのは先程の青年だが――余りに印象が違う。大きめの空色の瞳に柔らかい光を湛えた、この人とは。
「とっても優しくて、頼りになる人なんだ。…知らない?」
(…じゃあ絶対違うな)
些か強引な例の旅人を、あっさり除外して。「ごめんなさい」と首を振る。
「そう…ありがとう」
落胆した様子で、周囲に視線を彷徨わせ――ふと彼はサファイアに向き直った。
「あ、ごめんね。僕の名はエスト。…よかったら、君の名前を聞かせてほしいな」
「え?…ああ、サファイアです」
「サファイア…。ステキな名前だね。それじゃ」
透き通るような笑みを見せ、身を翻す彼。兄を探すのだろう――青い外套姿を見送って、サファイアはもう一度レムオンと名乗る青年を思い浮かべた。だがやはり結び付かない。
(…同じ金髪で、どっちも旅装なのにね)
どちらもこの小さな村では珍しい。だが…物腰柔らかなエストに比べると、レムオンの顔は冷徹に過ぎるし、口調も厳しい。モンスターを斬り伏せる様も容赦が無かった。
高価そうな外套の下の服が、血の様な臙脂色だった事を思い出して、サファイアは顔をしかめ――道の真ん中だという事も忘れて勢いよく振り返る。
「きゃっ!」
どん、と軽くない衝撃。視線を落とすと、足元で幼子がころんと引っくり返っていた。
「あっ…ああ! ごめんね!」
慌てて助け起こし、相手の砂を払い、見慣れぬ繊細な衣装に眼を留めて。
(…? 踊り子、とか?)
「――ごめんなさい! だいじょうぶですかぁ?」
愛らしい声に顔を上げると、幼女がぴょこん、と頭を下げた。
「フリントさんね、今日出発なの。だから急いでて…、ごめんなさい!」
そう言うなりぱたぱたと駆けて行く。村で一軒しかない宿屋に向かう姿に、やはり旅人かと頷き――もう1人、自分を助けた旅の商人が居たと思い出した。
(いけない、お礼言わなきゃ…まだ居るだろうか)
立ち上がったその視界を、鮮やかな青が掠める。

(――――?)

思わず目を向けた。相手もサファイアを見た――彼女の弟と同じ位の背丈。秋の空より濃い、珍しい色の頭。その前髪の奥――ひときわ強く輝く、瞳。
少年が足を止める。サファイアも向き直る。そのまま言葉も無く立ち尽くして。

「…あ、サファイア!」
鼓膜を打つ響きに振り向くと、エストが走ってくる所だった。
「さっきはいきなり話しかけて、しかも、さっさと行っちゃって…ゴメンね」
「あ…ううん」
首を振りながら、ちらと走らせた目線の先に、蒼髪の少年の姿は無い。
「そう言ってくれると、ホッとする。じゃ、改めて自己紹介するね…」
穏やかな声を聞きながら、今日は随分と旅人が多い、とサファイアは小首を傾げた。
――今の少年も旅行者だろう。光を散りばめたような目をした、彼。。
(海って、あんな色なのかな…。空よりもっと青いんだって、本に書いてあったし)
想像でしか知らない風景に、少年を重ねてみる。…それは不思議な感覚だった。何か、大切な事を思い出して、嬉しくなる時のような――。

(――おんや? エストがナンパしてら)
その少し後、宿から出て来た男が、村の娘と話す顔見知りの姿に、口元を歪めた。
珍しい事もあるもんだ、と肩を竦め、そっとその場を離れる。話に熱中する2人を邪魔しないよう――それだけ、彼は機嫌が良かった。心中は複雑だが、とにかく機嫌は良かった。そう…例えば、玩具を手にした子どもの気分に近い。
新しい玩具に頭を占められた男は、村娘の姿形など、気にも留めなかった。

エストと別れたサファイアが、宿屋を覗くと、やはり朝会った商人が居た。
礼を述べる少女に、それには及ばない、と彼は芥子色の頭を振る。
「…それよりも、お気付きになりましたか? 村の人々の雰囲気…」
意味ありげな微笑に、サファイアは目を見開く。通りすがりの村人の会話が蘇る。

―――このままでは、旅の方が言うとおり、村が潰れてしまう……!

「…やっと、立ち上がる気になられたようだ」
頷く相手に、これから起こす行動を話そうか、ふと迷うサファイア――だが結局、「お気をつけて」と頭を下げるに留めた。これ以上、他人を巻き込みたくはなかったのだ。
宿を出る間際、やはり温かな視線を背中に感じたが、今度は振り返らない。

後で思い起こせば、予兆とも、必然とも言うべきそれらの出会いを。
しかしその時のサファイアは気にも留めず。
…ただ、鮮烈な思いだけが焼き付いて、村を出ても長い事離れなかった。


 


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