或る農民の娘―序章― 


バイアシオン大陸――人と、人ならざる者とが、各々の生を営む世界。

ロストール王国。広大なバイアシオンの、南側に領土を持つ大国。
その領地の一つに、ノーブルという名の、ちっぽけな村がある。小麦を主要な産物とするこの村は、秋になれば、黄金色の海原の様相を呈していた――3年前までは。





神聖暦1201年、9月26日、朝。

村の広場を通り過ぎようとした少女が、ふと立ち止まる。切れ長の眼に警戒の光を漲らせ、二歩、三歩と後退り、腰に下げた護身の武器に手を掛けた――その視線の先、柱の影から男が現れる。

「ちっ…隙のねえ女だ。ボルボラ様が手下にしたがるのも道理だな」
いかにもならず者風体の相手は、唾を吐き捨て、短剣を手に凄む。
「だが、それも今日で終わりだ――死んでもらうぜ、サファイア!」

その声に応えるように、サファイアと呼ばれた少女がすらりと剣を抜く。襲い掛かる凶刃を弾く勢いで、相手の脇を打ち据え。ぐ、と地に伏せた男の手を素早く踏みつける。

「…他に、言う事は?」

ひたと首筋に切っ先を宛がわれ、男は顔を強張らせた。
「…っ、わ、ゆ…許してくれ! ボルボラ様の…あいつの命令で、仕方なく来ただけなんだ!」
あまりの豹変ぶり、と言うより情けなさに、サファイアは呆れて構えを解く。…その背後に別の男が立った。囮に気を取られた少女に剣を振りかぶり――
彼女が殺気に気付くのと、当の男が呻き声を上げるのは、ほぼ同時だった。驚いて振り向いたサファイアの視界に、崩れ落ちる殺人者と、更に別の人物が飛び込んでくる。

「こっそり後ろから狙うのは、あまり感心しませんな。代官の配下の方?」

柔和な笑みを向けられた囮の男が、覚えてろよ、と毒づいて、脇腹を押さえながら逃げて行く――広場の北にある領主邸へ。
そちらを見遣る少女の背中に、嘆息が届いた。
「やれやれ、お仲間を置いて行くとは薄情なお方だ。そう思われませんか?…サファイアさん」
呼ばれた少女はつい眉根を寄せる。――ボルボラの手下に名前を知られているのは当然として、見覚えのないこの男が何故、私みたいな小娘の名前を?――訝る彼女に、壮年の男は頷いた。

「この村の悪代官、ボルボラに立ち向かう者達を率いる、勇敢な方…」

「――あなた、誰です?」
眼差しを険しくした少女に、男は笑って首を振る。その動きで、後ろに束ねた芥子色の髪が揺れた。
「そう構えて頂かなくても結構ですよ。私はただの旅の商人です。…少なくとも、貴女の目的に賛同しているつもりですよ。ご安心なさって下さい」
安心、と胸中で反芻しながら、サファイアは目の前で微笑む男と、その足元で伸びた悪漢とを見比べた――生憎彼女は、こんな騙し討ちをする人間を常々相手にしている。簡単に信用できる筈も無い。
…商人と名乗る割には体格も腕も良い男を観察する内、彼女は最近耳にする旅人の噂を思い出していた。――代官を批判する旅商人。彼がその人だろうか。
(――どの道、あまり関わらない方がいい。味方だとしても、この人に危険が及ぶかもしれない)
そう結論したサファイアは、改めてその栗色の瞳に相手の姿を映す。
「その人は、放っとけば勝手に帰りますから。…失礼します」
軽く会釈して、身を翻す。領主の館とは違う方向――弟の待つ小麦畑へ向かおうとする少女に、サファイアさん、と穏やかな声が掛かった。

「貴女達の、ボルボラ打倒の活動が、実を結ぶ事を祈っていますよ」

…ふと心に響くものを感じて、少女は足を止める。肩越しに相手を振り返り――だがその正体を掴めぬまま。もう一度目礼して駆け出した。
それが父性とか、真心とかいう物だと――それ以前に、助けて貰った礼を言い損ねた事に、彼女が気付いたのは、畑に着いた後の事だった。





(サファイア…。いい目をした少女だ…)
印象的な瞳に近い色の髪を、短く詰めた少女。
強くあろうとするその姿に、何故か自身の青髪の息子が重なって、男はふと相好を崩した。――そろそろ、剣の稽古から戻る頃合いだ。そしたら支度をさせて、すぐに発とう。最後の仕事を仕上げる為に。
領主の館をちらと見遣る。サファイアに向けたのとは、別の表情で。

「――反乱は、予定より早く起こりそうですな…」

息子と同じ年頃の少女を待つ運命に、男は暗澹とした気分になったが、頭をふってそれを追い払うと、宿屋へと足を向けた。




 


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