出会い 3


一目見て、「強い」と判った。
義兄も背が高かったが、この男はそれよりも高い。その上外套も何も無く―――スラムに居るのなら当然かも知れないが―――、丈夫そうだが布製の服のみ、しかも上着を大きく肌蹴ているので、鍛え上げた胸筋が嫌でも目に入る。
しかし、それだけならエンシャントの港で見たボルダンと変わらない。
違う、と思ったのはその表情だ。
とても笑って等いられないこの状況で、酷く愉しげに、目を細めている。

(…何…? 誰、この人……)

普段のサファイアなら、すぐに只人でないと判断して、離れたかも知れない。
笑顔の理由も、貴族に楯突く珍しい奴だと思われたと、理解したであろう。
だが不幸にもこの瞬間、彼女は故郷の出来事に囚われていた。
気配も無く現れたこの男が、一瞬、思い出の光景から抜け出した父親と重なって見えたのである。
尤もその呪縛は、
「俺はゼネテス。冒険者だ。―――お前さんは?」
…という言葉で解けたが、亡羊とした感は消えぬまま。
「え、と……サファイア…です」
つられる様に彼女が答えると、相手はく、と口端を吊り上げた。
「サファイア、ね。覚えとくぜ。ま、よろしく?」
そう言って彼女から視線を外し―――だがさりげなく手を上げて、サファイアより遥かに大きくて固い指を彼女の目元に宛がう。
それは直ぐにすい、と離れたので、他の誰も気付かなかったけれど。
サファイアだけは気付いた。
気付いて、ようやく我に返って、蒼褪めた。
(―――嘘! 見られた……!?)

泣いていたのだ、彼女は。
自覚は無かったが、今の感触からすると間違いない。

自慢ではないが、サファイアは、誰にも涙を見せた事が無い。
父母を早く亡くし、幼い弟と広い畑を抱えた身では、泣く暇など無かったし、子どもだからといって泣いて許される社会でもなければ、時勢でもなかった。
第一、泣けば弟を不安にさせる。
だから気を張り詰めて、村人はおろか弟の前でも泣かずに生きてきたのに。
選りにも選って、初対面の、それも男に見られて、極め付けに拭われるとは。
(最悪…! 何やってんの、私の馬鹿!)
彼女の中では、貴族に仕立て上げられた時以来の衝撃である。
一生の不覚だ。

「クソッ、あのモンスターにどれだけ掛かったと思ってやがる! このクズめ!」

けたたましい喚き声で、少女はようやくタルテュバの存在を思い出す。
(そうだった…こいつが居なきゃ、こんな目に遭わなかったんじゃない!)
サファイアは振り向き様、腰に帯びた愛剣を抜き放った。
こんなひょろ長貴族など、剣が無くとも拳だけで勝てる自信はある。ただ、隣の男に一刻も早く醜態を忘れて欲しいが為の八つ当たりだ。
…当の男性が、貴族に躊躇い無く剣を突きつける彼女を見て、益々面白そうな顔をした事を、彼女は知る由も無い。
ともあれ、まさか剣を向けられるとは思わなかったのだろう。タルテュバは後退り、自分がクズ呼ばわりした女とその隣の人物を見比べて、憎悪に顔を歪めた。
「クソッ…覚えてろ、いつか痛い目に合わせてやる……タルテュバ=リューガ様の力を思い知らせてやる!」
「リューガ?」
サファイアが目を眇め、切先を向けたまま一歩踏み出す。
それにタルテュバは、哀れなほどビクリと強張って、一目散に逃げ出した。
「タルテュバ様ぁ!」と手下が悲鳴を上げるのも、耳に入らないらしい。
一方のサファイアは、聞きたくもない単語が出た事で、一層不機嫌になる。
「リューガだって? ふん、嫌な名前! 誰が覚えるもんか!」
「…? お前さん、貴族は嫌いかい?」
何故かまだ隣に居る男の質問を受け、サファイアはきっと振り仰いだ。
「大っ嫌い! 特にリューガなんて最ッて…い……」
…だが、妙に愉快そうな笑顔に迎えられて、折角の勢いも「…です、はい」と尻すぼみに終わる。
(何、この人…調子狂うなもう……)
つい視線を逸らすと、丁度先程の家から人が出てくる所だった。
其れを見て再度サファイアの血の気が引く。

「あーーーっ! 人形!」

ハンナの人形の事を、完全に忘れていたのだ。―――何たる失態。
どうした、と瞬く男―――ゼネテスとか言ったか―――に構わず、サファイアは剣をガシャンと収めて走り出そうとする。
(追いつくか? ああっもう最悪……!)
今日は絶対厄日だ、と呻く視界の端で、腰を抜かしていたタルテュバの手下が、よたつきながら逃げようとするのを目に留めた。
留めた、と思った瞬間だった。

「―――お前は待ちな!!」

雷鳴かと思う程、鋭い声が轟く。
ビク、とサファイアが竦んだ向こうで、手下のゴロツキがヒッと咽喉を鳴らしてへたり込む。
それほど大きな声だった。
少女が恐る恐る振り返ると―――怒鳴った筈の男はしかし、先程までと同じ晴れやかな顔で「何か聞きてえ事があるんだろ?」と首を傾げた。
「…はい……あり、ます……」
―――拙い人に関わったかも知れない。
サファイアの正直な感想はこうだった。―――逆らわない方がいい人種だ。それこそ痛い目に遭うに違いない―――野生の勘がそう訴えている。
早く済ませて帰ろう、そう独白してサファイアはゴロツキの側に屈んだ。
「単刀直入に聞く。さっきの奴、この辺で女の子から人形取ったでしょう?」
…だが最後まで言い終わらない内に、相手はがくがくと震え出し、首を振って「知らない」の一点張り。予想どおりの反応である。
「そ、じゃああんたは只の役立たずね。引き止めて悪かった。それじゃ」
サファイアはそう言うなり、今一度剣を抜く。
容赦なく心臓に突き立てんとするのを見て、流石の相手もぎゃっと頭を抱えた。
「ゆ、ゆ、許して下さい! ティアナ様にやったなんてコトしゃべったら、オレ殺されちまう!」
「…ティアナ…?」
「へえ…?」
少女がぱちぱちと、その背後の男がゆっくりと瞬くのを見て、ゴロツキはあ、と口を押さえ、今度こそ這う様にして逃げ出した。
それを放って置いて、サファイアは剣を収め、男の方を振り返る。
「ティアナ…さま?…って、誰ですか?」
先程の件で腰が引けて、つい敬語になるのは致し方ない。
「ん? 何だ、知らねえのかい? この国の王女姫様だよ」
「王女? 此処、王女様が居るんですか」
「そりゃあ…王国だからな。何か意外か?」
いえ、とサファイアは頭を掻く。ロストールの辣腕の王妃は例外として、王族の事など、お膝元はともかく周辺の農村までは一々伝わらないのが実情だ。
…其処まで考えて、少女は恐ろしい可能性に行き当たった。
「あ、あの…まさか、さっきのタルテュバって、王女様の婚約者なんじゃ…!?」
ゼネテスはその問いに目を丸くし―――次いで吹き出した。サファイアが驚くのも構わず、腹を抱えて大笑いを始める。
「っく―――ハハハハ! いや…そりゃあ無いと思うぜ、安心しな」
「え?…あ、それなら良かった。あんなのが趣味だったらどうしようと思いました」
「いや…フフフ、どっちがいいかね……いや、悪ぃ。くく…お前さん、面っ白えコト言うのな。気に入ったぜ」
ばしばしと肩を叩かれながら、「嬉しくない」と密かに思うサファイアである。
何しろ、早くこの場を離れたくて堪らないのだ。この男の側は落ち着かない。酷く豪快に笑うし、笑顔だと油断したらさっきの様な声を出すし―――。
「…とは言え、厄介な話には違いねえな。どうする? サファイア」
不意に名を呼ばれ、少女は飛び上がった。―――そう言えばさっき、うっかり名前を教えてしまった気がする。
ちら、と見上げると、相手の黒い瞳とかち合うので、またどきりとしてしまう。
…この視線も苦手だ。優しいくせ、先程からずっと注がれたまま。彼女を正面から興味津々に見つめて、挙句微笑む人間なんて、今まで居なかったのに。
居た堪れずに顔を背けた途端、とん、と軽い衝撃を感じ。幼い少女が脚にしがみ付いてきたと気付く。

「おねえちゃん、わたしのお人形、とりもどせる?」
「ハンナじゃねえか。ってこた、お前さんが大事にしてたあの人形か…」

考え深げなゼネテスの隣、サファイアもつい難しい顔になる。
屈んで頭を撫でると、ハンナは無邪気に見返してきた。人形がタルテュバから別の手に渡ったといっても、それがどんな一大事かは解らないのだろう。
その期待を裏切りたくは無い。
何より、こんな幼い子から宝物を取り上げるなんて横暴が、許される筈も無い。
(けど、どうやって取り返せばいい…?)
相手は仮にも一国の王女。腑抜け国王とあくの強い王妃の娘であれば、良い人間との期待は到底出来ないが、少なくともタルテュバに対した様な脅しは不可能だろう。まず王女の前まで辿り着けないに違いない。
…地面を睨むサファイアの脳裏に、先程「大っ嫌い」と宣言したリューガ家の当主が浮かぶ。
(―――仕方ないか……あいつに言って、何とか会わせて貰おう)
再び彼に頼るなど、死んでもごめんだと思っていたけれど。
しかし今は、彼女のプライドより幼女の願いが優先だ。ギルドに訴えたこの子の勇敢さに比べれば、いけすかない義兄に頭を下げる事など、如何程でもない。

「…大丈夫。何とかする。絶対取り戻してきてくるから」

サファイアは顔を上げ、強く笑んで見せる。
それを見て、ハンナはぱっと顔を輝かせたが、周囲の大人は不安気だ。
「『何とか』って、お前さん……城に忍び込みでもするつもりか?」
ゼネテスの声に、立ち上がって振り向く少女。その気合充分な表情を見て、ゼネテスがふむ、と顎に手を当て―――ややあってにやりと笑った。

「…そんなら、手がないわけでもねえぜ?」





―――王宮の何処かに、地下通路があるって噂を、聞いた事がある。
その言葉を思い出しながら、サファイアは、貴族街の先にある白亜の城の外壁を見上げていた。
スラムの冒険者の話を、鵜呑みにした訳ではない。
ただ、念の為に正面から向かった処、彼女の身なりを一目見た門衛から、「ここは冒険者の来る所ではない!」と言下に追い払われてしまったのだ。前回来た時はレムオンから借りた礼装だったが、今日はノーブルに居た頃そのままの簡素な服であったし、衛兵も前回と同一人物ではなかったらしい。
確かに、これ程まで身分差が激しいのだから、その枠組みから外れた冒険者など、貴族、とりわけ王宮の人間には「クズ」以下に違いないだろうが。
(タルテュバみたいな貴族の方が、よっぽどクズじゃない。嫌な感じ!)
サファイアは苛々を燻らせつつも、衛兵の視界に入らぬよう、慎重に城壁の外側を辿っていく。
何しろ、注意深く見ていないと、「普通に探しても絶対に見つからない」と断言されてしまったのだから。

―――大昔の緊急時の逃げ道らしいから、王族の部屋に続いてるかも知れん。
スラムの彼の提案に、実を言うとサファイアは一も二も無く飛び付いた。
信憑性は無いが、レムオンの力を借りずに済むなら、それに越した事はない。
「王女サマじゃなく、国王夫妻の部屋かも知れないぜ?」と言われた時は流石にぞっとしたが、衛兵はともかく眼光鋭いあの王妃なら、史上初の女騎士となった政敵の妹の顔も覚えていよう。
まさか、そんな事情をスラムの人々に明かせる筈もないので、
「とにかく行ってみます」
としか言えなかったが。
ハンナやその母親達が愕然とする中、情報をくれた男だけは、彼女の無謀さが余程面白かったのだろう、「そんならいいモンをやるぜ」とポケットを探った。
「何ですか……ペンダント?」
彼女に手渡されたのは、竜を模った銀製の首飾り。
田舎育ちのサファイアでさえ逸品と判る程、美しい意匠だ。
「冒険の途中で、ちょっと、な。もし王宮で捕まったら、そいつを見せて……」
「…見せて?」
「『自分は竜王様の使いだ!』って叫ぶんだ。この辺は竜王信仰が強いからな、びびって逃がしてくれるかも知んねえぞ」
「……絶対無理だと思います……」
がくり、とこけたサファイアに、「ま、何も持ってねえよかマシだろ」と男は無理矢理握らせる。
「付いていってやりてえのはヤマヤマだが、俺みてぇなデカいのが行くと目立つからな。…まあ、何かあったら助けに行ってやるから 心配しなさんな」
…そして、またあの笑顔を見せるのだ。
妙に親切にされて、サファイアは戸惑いを隠せない。
何故、との疑問が伝わったのだろう。男はサファイアの栗色の頭にぽん、と大きな手を乗せ、そのまま屈んで目を覗き込んできた。
「―――言ったろ? お前さんが気に入ったんだよ」

…その手の感触も、ふっと漂った酒の匂いも、何よりすぐ側に来た瞳が酷く澄んでいた事も忘れられず、先程からサファイアは四苦八苦している。
頭を撫でられるなんて、死んだ父親以来だ。
その所為だろう、混乱が収まらない。
―――姉ちゃんは、いい男に弱いからなあ。
挙句、余計な事まで思い出されて、サファイアは記憶の中の弟をきっと睨んだ。
(失礼ね! 大体、誰がいつ弱かったって?)
思えば、チャカは口癖の様にそう言っていた。最後に聞いたのは……そう、レムオンに初めて会った時か。確かに端正な姿だったけれど。
「―――だから、あいつの話じゃないっての!」
思わず声に出してしまい、慌てて口を塞ぐ。幸い周囲に衛兵は見当たらない。
サファイアはそれにほっとして、盛大な溜息を吐いた。―――確かにレムオンの顔は整っている、それは認めよう。しかし性格は極悪だ。傲慢だし嫌味だし。
(いい男ってのはね、あんたや父さんみたいな人を言うのよ、チャカ)
正義感が強くて、弱い者の味方で。陽気で、優しくて。

―――そう、さっきの人、みたいな。

浮かんだ考えにへたり込みそうになって、サファイアは思わず壁に取り縋る。
(駄目……重症だわ、これ………)
―――最初がいけなかった。涙を見られて、すっかり調子が狂ってしまった。
魔人には会うし、馬鹿貴族には会うし、あの場所は鬼門に違いない。
親切にしてくれた酒場の主人には悪いけれど、人形と首飾りを返したら、もう二度と行かない事にしよう―――そう決意した少女だが、何か、澄んだ音の様なものを感じて顔を上げる。
しかし、周囲は石壁のみで何も無い。
何よりその音、彼女のすぐ側で響いている様なのだ。
(………?)
はっとして、小物入れから件の首飾りを取り出すと、キン、と音が強さを増した。
同時に、側らの城壁が光り出す。
「きゃ!?」
サファイアが驚いて手を引くと、丁度彼女の指が触れていた部分に、首飾りにそっくりの、竜の文様が現れていた。
だがそれも一瞬の事。
その文様が―――否、石壁が音も無く消滅し。
ひと一人通れる程の穴が、ぽっかりと空いたのである。

「……うっそ………」

サファイアは呆然として、たった今白い石であったその部分を見つめていた。


 


弱ったな、ゼネテスにこんなに行使うつもりなかったんですけど。
「気に入った」とは、ホント単純に面白いと思っただけで、屈んだのも身長差の所為です。
私が書くとどうも下心がありそうでいけない;;

よーし、次はやっとあの方だ…!



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