朝の風景〜私鉄沿線バイアシオン〜
 



サファイアは激怒した。
必ず、かのおさげの気取り屋を除かねばならぬと決意した。

ロストール学園高等部に入学して2週間。電車通学にも随分慣れた。
しかし、彼女が普段利用するのは、もっと早い時刻の空いた列車である。今日は偶々、1人きりの弟・チャカが熱を出し、ぎりぎりの時間まで付き添っていた為に、満員電車に乗る羽目になってしまった。
そもそも、両親のいないサファイアが何故私立校であるロストール学園に行けるのか。否、行かされているのか。
よく有る話である。ある日突然アパートの玄関に現れた美形の男性が、「今日からお前は俺の妹(或いは弟)だ」と言うや戸籍も何も改変してしまったのだ。あまり無いかも知れないが。
おとぎ話との違いといえば、やってきた王子様が恐ろしく傲慢不遜な事くらいだろう。
(とにかく、あのレムオンさえ来なきゃ、私は私立校に行く事も、満員電車に乗る事も無かったのよ!)
…後半は完全に責任転嫁と言うか八つ当たりである。

だが、サファイアがそう思うのも無理はあるまい。
何せ彼女、今まさに痴漢に遭っているのだから。

どんなバカ男がデザインしたのか、ロストール学園の制服のスカートは、膝上15cm以上(出来れば20cm以上を推奨)と、学則で決まっているのだ。只でさえ両脇に激しくスリットが入っているのに、である。
挙句、女生徒用のブラウスは肩が出るか出ないかというほどの開襟鎖骨どころか胸元まで見えかねない。
痴漢に狙って下さいと言っている様なものだ。寧ろ狙うなという方が無理だ。
故に女生徒達は、集団乗車等の自衛策を講じているのだが、今朝のサファイアの様にアクシデントで遅れた場合はどうしようもない。
しかも鮨詰めの電車の中、片足が付かず、鞄の無い右手だけで何とか吊革に縋っている状況では、護身用の体術もろくに使えまい。そんな物騒なものを心得た女子高生もどうかと思うが。
ともあれ、何とかして痴漢の存在を訴えたいサファイアである。
しかし、人間本当に恐ろしい時は、中々声が出ないものだ。
おまけに何が怖いって、この痴漢、単に触ってくるだけならまだ可愛げのあるものを、胸を揉みしだくふとももを撫で擦るわ、まるで映画のラブシーンの様に愛撫してくるのだ。下手に口を開けばアブナイ声が出そうで、気が気ではない。
そんな訳で、体をいやらしく這い回る掌の感触に、恐怖と混乱とで頭が真っ白になりそうなのを、此処に居ないレムオンに理不尽な怒りをぶつける事で、サファイアは必死に耐えていた。レムオンにしてみれば迷惑極まりない話である。
だが、そうして堪えていれば済む問題でもない。
下半身を触っていた手が、下着に掛かったのを感じて、流石のサファイアも焦りを覚えた。
(いやっ、それは幾ら何でも犯罪でしょ!?)
既に立派な犯罪だと思うが。
もうこの際、人違いでも構わないので後ろに居るだろう犯人を蹴り飛ばそう、とサファイアが涙目のまま殺意を漲らせた瞬間。
ふっと、その手が離れる。

「―――痛エェ!!」
「女の子を泣かすのは、良くねぇなあ」

背後で、悲鳴と、対照的にのんびりした声が上がる。
それと同時、密着状態に僅かな余裕が出来たので、サファイアは思わず振り返り、すぐに見なければ良かった後悔した。
彼女の真後ろで、図体の大きな、しかもお酒臭い見るからに不良っぽい雰囲気を纏った男が、ひ弱そうな学生の腕を捻り上げていたのだ。しかもその不良の方と視線がばっちり合ってしまったのである。
(か、カツアゲ!?)
己の窮状も忘れて竦み上がるサファイアに、男は軽く口端を上げると、不意に大声で呼ばわった。
「おい、この男チカンしてたぜ!」
途端、ざあっと乗客が引き、彼らの周囲半径1メートルが空白地帯になる。あの満員電車の何処にそんなスペースがあったのだろう
一方で、痴漢の犯人だという学生―――よく見ると、サファイアと同じロストール学園の制服だ―――は、貧相な顔を一層引き攣らせた。
「何イィ!? 俺が、この俺が、何でクズ相手にそんな事しなきゃならないんだ!」
チカンした奴はみんなそう言うんだ」
そうだろうか。
「許し難いな」
乗客の中からぬっと現れたのは、これまた図体のある黒スーツロン毛でパツ金のいかつい男性だった。
不良第2号か、いやマル暴ではと慄く周囲を余所に、学生の頭をがっしと鷲掴む。
警察に突き出した方がいいだろう」
「お、話が解るな。頼むぜ」
折も折、ちょうど列車は駅に到着し、ドアが開く処だった。
「くそっ、離せこのクズが!! 覚えていろ、いつかこのタルテュバ様の力を思い知らせてやる! クズめクズめクズめエェェ!!」
喚きながら為す術もなく引き摺られていく学生を見送る事無く不良第1号はサファイアの体をぐいと引く。
「きゃ、あのっ…」
「はい、悪ぃけどちょっとどけてくんね? そうそう、すまねえな」
客の乗り降りで益々混雑する車内を、泳ぐ様に掻き分けて、彼はサファイアを電車の壁に押し付け、その両脇に手を付いた。
傍から見ると、マジで吊るし上げられる5秒前である。危うしサファイア。
「よし、と。これでチカンに遭わなくて済むだろ」
…しかしこの不良、どうやら彼女を助けてくれた上に、庇ってくれるつもりらしい。
「……あ、ありがとうございます」
まだ怯えながらも、何とかサファイアが礼を言えたのは、目の前の彼の装いが、激しく着崩されてというか寧ろ思い切りよく肌蹴られて薄汚れた風とは言え、やはり同じロストール学園の制服だったからである。
サファイアが安心したのを見て取って、男はまた笑みを上らせた。
「怖ぇのは解るけど、ちゃんと声出さなきゃ駄目だぜ? それでなくったって、お前さん可愛いんだからな」
外見に似合わず、その表情も声も酷く優しかったので、サファイアは相手を見上げたまま、ぽうっとなってしまった。
(…何か……いい人、みたい)
今し方腕を引いてくれた手がさっきまでの痴漢と似ていると、一瞬でも感じてしまった自分を恥じて、サファイアは未だ赤い顔を俯かせ、きゅう、と目を閉じた。

満員の乗客を乗せて、バイアシオン線は今朝も平和にひた走っている。


 

こんな出だしでもハイスクールラブコメ。
でも、被害者無しで痴漢を届け出られるんだろうか。

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