冀幸


「レムオン、居るか?」

返事は無いと解っていても、やめられない習慣。
ぶっきらぼうなノックを2回、声を掛けて、間髪入れずに扉を開ける。
…扉の向こうから返事が来ていた頃からの、それは、儀式に近い。

現れる光景も、何ら変わりない。
書斎とは異なるが、やはり整然とした寝室。埃一つ無い床、皺の少ない寝台―――脇机の上に生けられた花が、来る度に違う事さえ、以前そのままである。
…ただ、一人居ないだけで。

主が居ない、唯それだけで部屋とはこうも寂しく映るものだろうか。

静寂を乱すのが躊躇われて、足音を忍ばせ部屋に入りながら、サファイアはゆっくりと寝室を見渡した。
何処かこの中に、“彼”の失踪の手掛かりが隠されていないか、と。

…この館の当主、レムオン・リューガが消息を絶って、もう随分経つ。
弟妹も元より不在がちなので、館は灯の消えたような寂しさだ。
出迎えた執事の顔は心労の色が濃く、サファイアは少しでも休むよう勧めはしたが、「レムオン様がお戻りになるまでは」と頑として聞き入れない。
せめてエストだけでも戻れば、とサファイアは先日旅先で見かけた次兄を思い描くが、次の調査とやらに熱中していて、とても義妹の言葉が耳に入った様子ではなかった。
斯く言う彼女も、義兄の捜索に加え破壊神復活という大陸の危機に急かされて、とても屋敷に滞在できる状況ではない。
…そう、レムオンを探して、彼女と仲間達は今大陸中を回っているのだ。
勿論、この部屋は真っ先に探った。
こうしてロストールに戻った時も、必ずこの部屋に立ち寄っている。
時を同じくして消えた王女との書簡でも無いか。日記は無いか。シャリの―――王宮で暗躍していたあの少年の痕跡は無いか。
何度探しても、結果は同じ。
何も無い。
綺麗なものだった。

もう何度目か判らない溜息をついて、サファイアは手を休め、窓の外を見遣る。
今日は風が少し強い。サファイアも此処へ来る途中で度々煽られた。
―――風の日も、雨の日も、彼はこの部屋に居た筈なのに。
(何故、戻ってこない…?)
理想に燃えていたではないか。貴族共和制を復活させるのだと。
この窓から、貴族街と王宮を見つめていたではないか。
…貴族街の整った屋根を見下ろしながら、サファイアは硝子に当てた拳を握り込んだ。

今日は、風が少し強い。
横髪を揺らされてサファイアはそう独語し、ふと目を見開いた。
―――この部屋は閉め切っている。風が入ってくる筈が無いのだ。
振り向くとしかし確かに、棚の後ろの壁に垂らされた布が微かに揺れている。隙間風だろうかと訝り、近寄ってよく見る為に棚に手を付いた所、何とその棚が容易く動いた。
サファイアはぎょっとしたが、恐る恐る押してみると、棚はするすると移動して丁度人が納まる位の空きを作った所で止まる。
布をたくし上げて壁を探り、引き戸になっているのに気付いてぐいと開く。
同じ様に被さった布を跳ね上げて―――絶句した。

其処は、まだ数える程しか入った事のない、サファイアの為の部屋であった。
使用人が空気の入れ替えの為に開けてくれたのだろう、窓布がはためいている。

考えてみれば当然である。彼女の部屋はレムオンの部屋の隣なのだから。
(けど何で……あいつ、こんな仕掛けがあるなんて聞いてないぞ…!)
一体何の為に、と呟くサファイアの視線が、目の前の机に吸い寄せられる。
触れた覚えも無い豪奢な作りの机、その引き出しの一つが、僅かに開いていた。
不自然に―――まるで、乱暴に閉めたその勢いで跳ね返ったかの様に。
サファイアは思わず取っ手を引き、中に一通の手紙を見出した。
それは手に取ると少し重く、上部が何故か歪んで皺になっている。
…そして表には、懐かしいあの流暢な字体で記された、彼女の名前。

封を切ると、中から便箋と、細い金の腕輪が出てきた。


   「お前に手紙を書くのは初めてだな。
   …そう言えば、字を読めるかどうか聞いていなかったな。
   まあ、読めんなら会って直接言うまでだ。

   先日は済まなかった。つい動揺して、お前を拒んでしまった。
   反省している。
   だがあの一件で、俺やお前の立場が危うくなったのは間違いない事実だ。
   だから、俺は勝負に出ようと思う。
   俺の秘密を知るファーロス家を排する為の、恐らく最初で最後の大勝負だ。
   …まあ、お前を妹に仕立て上げた時ほど、行き当たりばったりでは無いから、
   計画どおりにさえ事が運べば、勝算はある。
   ついては、お前の力を借りたい。
   昔『共に歩める同志が欲しい』と言った事を覚えているか? 今がその時だ。
   サファイア、お前の力が必要なのだ。俺に協力して欲しい。

   それと引き換え、という訳でもないが、この腕輪をやろう。
   お前は確か、来月が誕生日だったな。
   もう20歳だ。いい加減安物の装備を捨てて、貴族らしい装いをしろ。
   女らしくとは言わんが、騎士であるつもりなら、もう少し威厳を保て。よいな。
   この家に来たばかりの頃よりは、似合う様になったのだからな。

   よい返事を待っている」


手紙の末尾には、“お前の兄より”と書かれていた。

「…兄、だって……?」
―――そんな事、思った例も無い。あんな嫌な男が兄だなんて。
兄だなんて。
そう呟こうとして、戦慄く奥歯を強く噛み締める。

何時頃書かれた手紙だろう。
きっと、丁度ダルケニス騒動が起きて、彼女がこの街を飛び出してしまった頃だ。
風の巫女エアの予言を聞いて急ぎ戻ったものの、今度はカルラ戦をボイコットするというレムオンに腹を立てて―――
訳も話してくれない彼に、自分は何と言った?
「あんたの気持ちが解らない」と。
「協力できない」と―――。

―――お前の力が、必要なのだ。

「今更……何言ってんだよ……!」

どうして言ってくれなかったんだろう。
彼はいつもそうだ。大事な事は何一つ、自分からは口にしない。
最低限のことさえ言わないから、サファイアは全部、後になって気付くのだ。
必要としてくれていた、だなんて。
「言わなきゃ、わかんないよ…っ……」
猪みたいで気が利かないって、自分が言ってたくせに。
私には解らないのに。
何も、何も、なにも―――……。

ぱたぱた、と滴が手紙を濡らす。
皺になった手紙。
きっと彼女と決裂した後、破いて捨てようとでもしたのだろう。
でも出来なくて。
せめて、と彼女の机に放り込んで。
「………ッ……」
情景が目に浮かび、堪らずサファイアは床に崩れた。
―――どんなに苦しかったろう。どんなに悲しかったろう。
彼の孤独を分かってやれなかった自分。

「………ごめん………」

口を衝く言の葉も、此処に居ない彼には届かない。
それに気付いてサファイアの両目にまた涙が溢れた。

(早く帰って来い、馬鹿)
―――帰って来てくれなきゃ、言えない。届かない。
私だって、まだ何も伝えてないのに。
初めて会った日、助けてくれた事へのお礼さえも―――。

「…帰って、きてくれ………」

大陸の何処かに居る彼に、希う。
戻って、と。
―――そしたら、今度は間違えないから。
どんなに照れ臭くても、ちゃんと言うから。
「ごめんなさい」も、「ありがとう」も。
もう「大嫌い」だなんて子どもじみた事言わない。
だから。

6月の終わりの風が、窓布を揺らし、彼女の涙を攫う。
強かった風が急に優しくなったので、今なら素直に泣ける気がした。


 


レムオン誕生祭「私のお兄様」に提出した創作。暗くてごめんなさい;;
「冀幸」とは、万に一つの幸せを希うという意味だそうで、
うちの馬鹿娘はようやく、レムオンが居る事も掛け替えの無い幸せと認識した模様。


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