居酒


「…ゼネテス、それだけはやめときな」
青い顔で囁く店主に、「なあに、大丈夫だって」と笑いながら、男は重みを増した酒盃を手に取る。

此処は、ロストールにあるゼネテス行きつけの酒場。
繁華街の同業程大きくはないものの、穴場として評判は上々である。
そんな店の近頃の自慢は、腕は立つが真っ昼間から店の一角を占拠する無精髭の不良冒険者…ではなく、彗星の様に現れた美貌の得意客だった。
サファイアというその美少女、半年前に冒険者登録して以降めきめきと頭角を現し、冒険稼業の世界では今やちょっとした有名人だ。彼女を一目見ようとやってくる客も多く―――微妙に女性の比率が高い気もするが、男である店主は深く考えずに喜ぶ事に決めていた―――、店が繁盛して有り難い事この上ない。
…そのサファイアに、不良冒険者が悪戯で酒を飲ませようというのである。

「ホントにやめとくれよ。例え13歳過ぎてても、無理強いは犯罪なんだよ? 折角繁盛してきたうちの店で前科作られちゃ困るんだよ」
「…何の話だよ」
ゼネテスは半眼になると、何処ぞの国の強制猥褻罪―――寧ろその次の条文かも知れない―――にまで思考が飛んでいるらしい店主に、ひらひらと手を振って見せた。
「別に、酔わせてどうこうしようって腹積もりじゃねえんだぜ?」
「あんたのその科白は全然信用ならないんだよ」
間髪入れぬ断言をまるっきり無視して、ゼネテスは「ほらよ」と隣に杯を勧める。
「…? あ、あの私、お酒は……」
幸か不幸か、それまでの遣り取りを聞いていなかったサファイアは、ジョッキとその中の液体に目を白黒させた。
ひよこ冒険者の頃から此処に通っているにも関わらず、サファイアは一度も酒を頼んだ事が無い。いつも店主が特別に準備する茶ばかりだ。
それではいけない、とゼネテスは思う。
酒の楽しみを知らないなんて、人生を半分以上損しているに等しい。
人生の意義を問われて「酒と女と冒険」と即答する様な彼と一緒にして欲しくないものだが、ともかくも彼は先輩冒険者として一肌も二肌も脱ぐ気満点だ。
―――人はそれを“余計なお世話”と呼ぶ。
しかし、憧れの相手に対して余計などと感じる回路が灼き切れているサファイアは、ひたすら戸惑うばかり。
「どうしたい? 別に変なモンは混ざっちゃいないぜ」
「いえ、でも私…本当にお酒は駄目なんです」
「おいおい、お前さんもう18だろ。とっくに飲んでいい年齢じゃねえか。…それともアレか? 飲むなって口うるせえ過保護な兄貴でもいるのかい?」
「まっまさかとんでもない!」
…サファイア18歳、まさか己が名門リューガ家の人間だとは死んでも知られたくないお年頃であるが、惜しい事に嘘が大変下手だった。
明らかに裏返った声を、嘘など物の数でない男が信じ切った顔で受け止める。
幼子と父親のキャッチボールの様に微笑ましい。投げ合う球は爆弾だが。
ともあれ、自分で退路を断つ形となったサファイアは、男の笑顔に押されるままジョッキを見つめ―――ふと頬を染めて、消え入りそうな声で告白した。

「でもあの、本当に…酔うと、ちょっと困るんですよ……」

刹那、ゼネテスの顔にそれは興味深そうな表情が閃くのを、店の主人及び客達ははっきりと目撃した。

「…心配しなさんなって。俺が、ちゃあんと責任取ってやるから」

―――あんたにンな事言われて安心する奴が、この世の何処に居るんだ。
心の中で一斉に突っ込んだ客達だが、勇者は何と、彼等の目前に居た。
サファイアがすまなそうな、だが頼り切った表情で隣の男を見上げた後、おずおずと酒盃に手を伸ばすのを見て、店主は真剣に夜逃げの手順を考え始めた。





それから、2時間も経っただろうか。
酒場は何時にも増して賑わっていた。
サファイアを迎えに来た仲間達も、半ば強制的に酒宴に加わらせられた。
ルルアンタとナッジは、既にゆらゆらと揺れている。
酒好きのデルガドは、客の中心で刀鍛冶の歌を披露している。

そして、問題のサファイアは。

「…あ。これ、さっきのより飲み易いです」
…2時間前と何ら変わった様子が無かった。

(…全然、ヤバくねえじゃねえか)
さりげなく彼女を覗き込みながら、ゼネテスは呟く。
酒が回っていない訳ではあるまい。頬はほんのりと赤いままだし、いつもより少しだけ饒舌になった気がする。
しかし、例えば呂律が合わなかったり、指先がたどたどしかったり、気配が揺れたり―――そういった“酔い”の兆候が、まるで見られないのだ。
これが笑い上戸や泣き上戸、或いは彼の胸に凭れ掛かる様であれば、店の二階の寝室に連れていくのも致し方ないとごく自然に考えていたゼネテスだが、この展開はちょっと予想を超えていた。
(結構、いけるクチなのかね?)
―――それならそれで構わない。酒飲み仲間が増えるのは良い事だ。
少女が両手でジョッキを持ち、目を瞑って少しずつ飲み込む様を可愛いと思い、そう感じる自分も少し酔っているなと苦笑して、ゼネテスは次に飲ませる酒を選びにかかった。





更に2時間後―――。

酔客の半分は、既に寝息を立てていた。
まだ潰れていない人間達も、酒のペースを落として会話中心になっている。
筋の通らない話に、時折箍の外れたような笑い声が起きる。

「うーん…、火酒はやっぱりきついですね」
…そんな中、サファイアだけはしっかりした声音であった。

ゼネテスは焦りを覚えていた。
何杯飲んでも、新しい酒杯を勧める度「これ以上はちょっと…」と遠慮する彼女の為に、ゼネテスは毎回自分が少し飲んでみせてから渡していた。
それを繰り返す事十数杯、流石の彼もいい感じに酔いが回っている。
なのに、彼の5倍は飲んでいる筈のサファイアが、一向に酔わないのだ。
(まずいな……これ以上酔ったら、俺の方が運びたくても運べねえぞ)
何時の間にか、二階へ連れ込む事が大前提になっている。
「酔わせて云々のつもりはない」との宣言は、何処へ行ったのだろう。
しかし、こんな子どもを潰せなかったとあっては、酒好きの面子が立たない。ゼネテスはひとつ頷いて、勝負に出た。
「そう言うなよ。ウイスキーこそ酒の醍醐味だぜ?…俺の取って置きを出してやるよ」
とびきり甘い声で囁きながら、とびきり度の高い蒸留酒を指す。
店主はその意図を読んで眉を寄せたが、ゼネテスの目が笑っていない事に気付くと、無言で酒瓶を棚から取り出した。





それから、更に3時間が経過した。
客達の話し声は疾うに途切れていた。
時折、テーブルの間から高いびきが響き渡る。

「…わあ! これ甘いですね。今日ので一番好きです」
大量に火酒を飲んだ後の果実酒の甘さに、サファイアが口元を綻ばせて振り返ると、ゼネテスは肘を付いた手でこめかみを押さえていた。

(マジかよ…何で酔わねえんだ!?)
単純に数えても、サファイアが飲んだ量は一樽を下らない。
これだけ飲めば、幾らゼネテスでも前後不覚になり兼ねない。
「ゼネテスさん? 大丈夫ですか、お水要りませんか?」
…それなのに、彼を労わるサファイアの表情は、普段と変わりなかった。
「いや…構わねえよ。ただちょっと用を足しに―――」
逃れるように顔を背け、椅子を降りようとしたゼネテスだが、長い事座りっ放しだった所為か、一瞬重心が浮いた。
「危ない!」
すかさず椅子を滑り降り、彼の身体を支える少女。
自然、視線が落ちたゼネテスは、全く揺るがない彼女の足取りに愕然とする。
―――確かに困る。ちょっとどころか激しく困る。
こんなに強い女が相手では、男も酒場も立場が無い。

ゼネテスは知らなかった。
彼女が、リューガ家の領地ノーブルで生まれ育った事を。
現在はともかく、かつてのノーブルは豊かであった。小麦も獲れれば葡萄も実った。およそノーブルで作る事の出来ない酒は無かった。
そして、農民の家庭に残るのは、領主に納める事も市で売る事も出来ない粗悪品ばかり。
それらを日常から水代わりに飲み、更に祭事では大酒して、挙句に酔った男衆を介抱するのが女の役目である。慣れない方がおかしいのだ。

そんな事とは露知らず、落ち込むゼネテスの耳に、勘定を問う声が届く。
「ああ…いんや、お仲間の分も数えなきゃならんからね、明日にしとくれ」
店主の当惑した返事で、サファイアは仲間の事を思い出したのだろう、ああ、と呟いてテーブル席へ向かった。
「何なら、二階に泊まってお行きよ」
「ありがとうございます。でも、もう宿屋に部屋を取っているので…」
微笑みながらサファイアは、ルルアンタを片腕でひょいと抱き上げ、もう片方の肩でナッジを支える。
「デルガドは…鎧着てるからいいかな。ごめんね」
床で眠りこけるドワーフの腕を掴むと、「それじゃお休みなさい」と一礼して、ずるずると引き摺ってゆく。
肝っ玉母ちゃんという表現がぴったりの、堂々とした後ろ姿だ。

「…親父……俺が保証する。あいつは大物になるぜ……」
「…あんたが今夜吐いた科白の中で、一番説得力があるよ……」
うるせえ、と毒吐いたきり突っ伏した男を見下ろし、店主もまた安堵やら驚嘆やらの入り交じった溜息をつく。
酒の匂いを残す店内には、いびきだけが高らかに響いていた。




明けて翌朝。
「飲んだ朝にゃビールだよな」と相も変わらず―――但し幾分不機嫌な顔で、ゼネテスが酒杯を口に運んでいると、サファイアが店の入口に現れた。
「おはようございます……あの、ええと」
一眠りして湯も浴びたのだろう、カウンターに寄ってくる姿はこざっぱりとして、深酒の気配ひとつない。傍らの飲んだくれとは大違いだ。
店主が感嘆する一方で、昨夜の件でプライドを傷付けられたゼネテスは「よう」と言ったきり目を合わそうともしない。
それを怒りと取ってか、サファイアは猛烈な勢いで頭を下げた。
「あのっ―――ゼネテスさん、昨日は本当に済みませんでした!」
「…いや、別にお前さんが謝る事じゃねえだろ」
「でも、私達を4人とも宿まで運んで頂いて…、重かったでしょう?」
「………………………………、はぃ?」
ゼネテスと店主が同時に疑問符を出すと、少女は益々身を縮める。
「本当にごめんなさい、私全然覚えてなくて、他の皆も途中で寝ちゃったって言うし、心当たりがあるのがゼネテスさんしか―――」
「いやそれは」
この人じゃなくてあんたが、と言い掛けた主人の口を塞ぎ、ゼネテスは彼女に向き直った。
「覚えてねえ…って、お前さん、ひょっとして昨日の記憶無えのか?」
「あ、いえその、一杯目にビールを飲んだ事までは……」
「……二杯目は?」
サファイアは小さく頭を振る。小さくなり過ぎて可哀想な位だ。
「何杯飲んだかとか、何時に終わったとか」
「それをお伺いする為に来たんです」
「…俺との約束も?」
鎌を掛けると、サファイアはみるみる青褪めた。
「や、約束って…約束って、私何を言ったんですか?」

サファイアは嘘が上手くない。
栗色の瞳を見据え、ゼネテスは確信した。―――これは嘘ではない。彼女は本当に、昨日の一切を忘れている。
…元々、酒に強い体質ではないのだ。慣れと、リーダーとしての責務から、理性を留めていたに過ぎない。
実際は、ビール一杯で記憶を失くしてしまう少女なのだ。
それは困るに違いない。

声を殺して笑い始めた男の様子に、サファイアは一層慌てたが、店主にはゼネテスの気持ちが嫌という程解った。
―――自信を失くしていた遊び人が、復活してしまった。
否、主導権を握って寧ろパワーアップしている。
果たして、顔を上げた男は、腰が砕けそうな程蠱惑的な笑みを浮かべていた。

「酷えなあ。マジで、これっぽっちも覚えてねえの?」
「あ、あの、その、ごめんなさ……」
「…昨夜のお前さんは、あんなに可愛かったのになあ……」
「…え? え? え?」
「ま、お互い酔った上での出来事だしな。気にすんな」
「あ…あの……私、一体何したんですかっ?」
「何って…フフ、昼間からはとても言えねえよ。あんな事やこんな事や……」
「〜〜〜〜〜〜!?」

嘘ではないが真実でもないゼネテスの証言は、店主が「もうその辺にしとけ」と彼の頭を空瓶で殴るまで続いた。
しかしサファイア自身に植え付けられた疑念は拭い難く―――。
以後、彼女は益々もって酒類を受け付けなくなったという。


 


拙宅の女主がお酒を苦手になった決定打(笑)。


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