沈黙


頁を繰る音。
衣擦れの音。
首を傾げているのだろうか、あの金を縒った様な髪が、さらりと零れる音。
それらをサファイアは、聞くともなしに聞いている。

―――否、それは嘘だ。
気のない素振りで、全神経をそれらの音に傾けている。
音を立てる相手が間違いなく其処に居るのだと、確かめる為に。

義理の兄が空中庭園に呼び出された事に端を発した、あの一連の出来事以来、サファイアは頻繁にリューガ邸を訪問する様にしている。
…とは言え、取り立てて何かを話す訳でもなく。
ただ義兄の居室の床に座り、ソファに寄りかかって、ぼんやりと過ごすだけだ。
彼の気配を間近に感じながら。

「…退屈なら、本でも読んだらどうだ」
彼女が背を凭せた長椅子に、こちらは座っているレムオンが、素っ気無く聞いてくる。
「私が、此処にある帝王学だの何だのを読みたがると思うか?」
目も向けずに応じた彼女だが、予想した皮肉は無く「そうか」と呟かれるだけだった。
己の素性を知られて以後、彼が義理の妹に浴びせる悪態は、何処かぎこちない。
その事が無性に、寂しい。

―――彼が言う程退屈な訳でもない、とサファイアは思っている。
初めこそ無言の空間に気まずさを覚えたが、割り切ってしまえば元々遠慮の要らない間柄、却って旅先の緊張感からも仲間を率いる重圧からも解放される気がした。
…そうして伸びやかな気持ちで眺めれば、厭という程見てきた筈の青年に、色々新しい発見がある。
それは例えば本の好みだったり、気乗りしない時は指先で机をコツコツコツと3回叩く癖だったり、或いは初夏の強い日差しを厭うらしい事だったり、他愛もない事柄ばかり。
生活感を漂わせない彼の、妙に人間らしい一面を見て、噴き出しそうになる時もある。
反対に、やはり誰よりも貴族らしい貴族だと、複雑な気分になる時もある。
純血の貴族達より―――いっそ王族よりも、というのはかの王女でさえ民に下る事を夢見ているからだが―――、貴公子然とした青年だ。例え変装した所で、人は彼の高貴さを見抜くだろう。
たかが正妻の子でない、たかが異種族の血が半分流れている、その事を何故レムオンが必死に隠そうとし、そしてあれ程弾劾される必要があったのか、種族の垣根に今ひとつ疎いサファイアには理解出来なかった。
だからこそ、ダルケニスの姿を見たにも関わらず、こうして彼の元を訪れている。
恐れは無い。
ただ、彼の見せた思い詰めた表情が、酷く心配なのだ。

心配性だか無神経だかを判断しかねて、レムオンは呆れたまま斜め下にある少女の旋毛を見ていたが、不意にまた口を開いた。
「何故、いつも床に座る?」
「ふかふかしたの苦手なんだよ。安物のベッドにしか寝た事ないから」
…そう言い終わらぬ内に、サファイアは両腕を掴まれ、長椅子に引っ張り上げられた。
「っわ! 何すんだ、貴族の椅子なんて座り難いんだよ」
「ならば俺に凭れていろ」
ぐい、と強引に栗色の頭を抱えて自分の肩に押し付ける青年。
サファイアはそれに困惑し、顔を歪めたまま、しかし振り払う事も出来ず相手の膝の上の書物に視線を落とす。
その本はどうやらロストール建国以前の史書らしく、七竜家の祖と思える領主達が其処此処に見えた。
中にはレムオンの天敵である王妃と同じ名の女性も出てきて、サファイアは興味を引かれたのだが、レムオンの方は躊躇いなく頁を進めたので、彼が真剣に読んでいるのではないと気付いてしまう。

本を読む振りをしながら、彼は今何を考えているのだろう。
身体は確かに此処にあるのに、心はまるで遠くへ行ってしまったかのよう。
耳を欹てていないと、その存在すら消えてしまいそうで。

何か、酷く重いものに胸を衝かれて、サファイアは堪らず腕を伸ばした。
驚く相手に構わず、その胴にしがみ付いて体を寄せる。

「……何処にも、行くなよ?」
何をする、と言いかけたレムオンの言葉は、彼女の声で遮られる。
「何処も行くな。此処にいろ。あんたの家は此処なんだ」
「何を…言っている」
「怖いんだ。夢を見る……目が覚めたらあんたが居ない夢」
らしくもない台詞に、レムオンは初めて、背に回った手が戦慄いている事に気付いた。
小さな手だ、と思った。
初めて会った時から、その小ささも直情的な所も、生意気な接し方さえ変わらない。
圧倒的な強さ以外は、何一つ。
謀略に疲れた身に彼女の存在は快くて、だから今度は自分が安心させてやりたかった。
「……済まん。心配させた」
…しかしその言葉は、彼の意図とは裏腹に、サファイアの胸を抉る。

(―――行かない、とは……言わないんだな)

涙が零れそうになって、思わず体を離した少女を、レムオンの手が追う。
短い髪を掴む様にして、口付けを奪った。
息が出来ずに逃れようとするのを、長椅子の背に押し付けて責め立てる。
…唇を離した途端、力なく椅子に凭れかかる相手が、レムオンには可笑しかった。
「貴族の椅子は嫌いではなかったのか?」
「…あんたが…変な、事するからだろ…」
可愛くない返事に、青年は再び笑うと、今度はゆっくりと口付けを味わう。

―――それでも、この男の目が迷うから。
何時だって冷静な彼が、迷う色を見せるから、サファイアは「行くな」と言い続ける。
いつかその迷いが真実になってくれるかも知れない、その可能性だけを信じて。

―――自由な筈のこの女が、自分の為に留まるのが心地良いから。
この国を去ると決めていても、レムオンは彼女を待ち続ける。
もう一日、あと一日と自分に言い聞かせて。

そうして二人は、また物言わぬ一日を過ごす。
甘い嘘を唇に乗せたまま。




 


サファイアの甘々です。甘々の意味を激しく取り違えてますが比較的甘々のつもりです。
言った私が馬鹿でしたもう書きませんごめんなさい;;(余程恥ずかしかったらしい)

拙宅の女主は、政争ばかりの貴族に愛想を付かして王国を出てしまう予定なのですが、
こうやってレムオンの許に残るのもありかな、と最近思えてきました。


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