Gardenia |
良い香りがする、と旅路で呟いた仲間に、頷いた事がある。 「ああ……梔子の花よ」 物知りの吟遊詩人より先に答える事の出来た、唯一の花だった。 どうして知っているの、と悪戯っぽく問われ。はにかんで目を逸らした先、緑の中の優しい白を見つけた時の、あの何とも言えない幸福感をまざまざと思い出せる。 瞼を閉じてなお眩い陽の下でも、その香りは胸を捕らえ。 しっとりした闇夜の中では、より一層人を酔わせる、白い花―――。 …月が泣いている気がして、目を開けた。 しかしセリューンの灯火は影も無く、無数に散らばる弱々しい瞬きが、月無夜であるという事実を嫌でも思い出させる。 月の無い日は、何故か耳が痛い。 誰かが泣いている気さえする。 ―――今夜泣いているのは、自分だ。 濡れた頬を拭い、視線を落とした弾みで、闇に浮かぶ仄白い灯を見出す。 目を凝らすとそれは、屋敷の庭に咲いている梔子の花だった。 辺りに漂う愛しい香りが、今夜は酷く胸に重い。 そう言えば今朝は兄の部屋に生けただろうか、と芯の痺れた様な頭で思い出そうとする。 この季節、ロストールに滞在する間は、兄の居室に梔子を一輪飾るのが日課であった。 しかし間近な筈の記憶は妙に曖昧で、先程まで居た部屋に白が有った事すら定かでなく。 寧ろ、明日は生ける事が出来るだろうかと、その一事ばかりが巡っている。 “―――出て行け” 先程まで居たその部屋で、彼が呟いた一言が、 今も胸を刺し貫いたままだからだ。 留まりたかった。 少しでも頼る素振りがあれば、一晩中でも傍に居るつもりだった。 しかし兄は背を向け、自分を拒んだ。 あたかも部屋に飾られた花を捨てるかの如く。 …結局自分は、彼の心に止まる事が出来なかったのだ―――と。 大好きな梔子の花が、不意に憎く感じられて、衝動に任せ剣を抜く。 いっそ世界中を憎んでしまいたかった。 あの人の心を癒す事が出来ない世界なら。 絶望させる事しか出来ない世界なら。 ざ、と力任せに薙げば、枝のへし折れる音に続いて白い花弁が飛び散った。 途端、激しい後悔に襲われる。 ―――出来る筈が無い。憎むなんて。 あの人を産んでくれた、あの人に遭わせてくれた世界を、憎むなんて。 膝を付き、両腕に花をかき集めて顔を埋める。 咽返る程の香りに、涙が溢れて止まらなかった。 昔からこの花が好きだった。 花が終わり実となっても口を開かぬこの花は、自分と似ている。 自分の胸に何時からか実った、ほろ苦いこの想いと、似ている。 …そう、彼に出会って、彼がこの花の季節に生まれたと知って、もっと好きになった。 憎める訳が無いのだ。 何処か切ない香りに胸を塞がれ、嗚咽も無く只涙を流していたが、 ふと何かに―――今宵は居る筈の無い月に呼ばれた気がして、振り仰ぐ。 屋敷の一角の窓が、何時からであろうか開いていた。 灯りの点らない部屋は暗闇で、窓辺に立つ人物の輪郭は朧気にしか見えない。 それでも自分には判る。 何故なら其処は、毎朝梔子を摘みながら自分が見上げる、その窓であるのだから。 (…レムオン……?) 何時から其処に居たのだろう。夜風に当たっていたのだろうか。 この時期の風は、梔子の香りが強いだろうに。 梔子の、香りが―――………。 息を呑むと同時、窓辺の人影がふいと消えたので、 彼がこちらを見ていたのだと気付く。 ―――ああ。 この花は、自分という存在は、確かに彼の心に止まっていたのだ。 腕から零れた過ぎかけの花房が、地面に落ちてはらと砕ける。 蕾のものは形を保ったものの、踏み拉かれ無残な姿で散らばった。 …そうして誰も居なくなった夜の庭に、 先程よりも強くなった梔子の香りが、それでも甘く、切なく漂っていた。 とも様の「もの言わぬ花」にぽろぽろ泣いてしまって、 つい勝手に続きを書いて押し付けたという、傍迷惑な逸話有り(笑)。 結実しても口を開かない程頑ななので、梔子。 その花を蹴散らしてレムオンの元へ駆けた彼女が、 レムオンへの思いを口に出来た事を祈って。 |
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