唇に歌を
 
出来心、とすら呼べない。
ほんの一瞬の衝動だった。



“パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、
 私の愛したあの人に宜しく伝えて頂戴……”

ゼネテスの副官は、よく歌を歌う。
それは旅仲間の吟遊詩人から習った歌であったり、或いはまるで小麦挽きの際に農民が歌う様な歌であったり、いっそ詞の無い歌であったりと様々だ。
機嫌の良し悪しに関わらず、道行だろうと今の様に料理中だろうと唇を衝くものらしい。
…そう、まるで詞に出てくる香草の様に、一見無意味な旋律。
ただそれが、本来は香草に真実の愛を託す歌で、しかも他の男へ贈る為の菓子を作っている最中となると、彼女を気に入っているゼネテスには些か面白くないのである。

「…何を作ってるんだい?」
宿の厨房の入口から問えば、当のサファイアが、歌の続きの様に答える。
「レモンロールよ。一番得意なケーキなの」
「へえ……」
初耳だ、とゼネテスは肩を竦めた。
サファイアと知り合って長いが、そんな本格的なケーキなど作って貰った覚えは無い。
それが酒好きな彼への心配り―――実際、彼には菓子よりつまみ類の方が有難かった―――だと理解していても、喉奥に棘が刺さった様な不快感は消えず。
「何せ、相手がレムオンだから失敗出来ないの。気合い入れて作らなきゃ」
相手の無心な言葉が、更にその棘を深く食い込ませる。

(男の我儘…ってヤツなんだろうな)
不快感の正体を、ゼネテスはまるで他人事の様に分析する。
自分に惚れている女が、例え怒りや憎しみからだろうと、他の誰かに心を費やすのは面白くないのだ。
腹立たしいという程でもなく、ただ何となく苛々する。
だから却って性質が悪い。

「ホントは、唐辛子でも入れて真っ赤なケーキにしちゃおうかと思ったの。でもそれじゃ食べられないから材料が勿体無いし、私の料理の腕がきちんと証明されないでしょ? あいつ私の事をいっつも『女らしくない』って馬鹿にするから、年に一度位見せ付けてやりたくって」
混ぜていた生地が垂れ落ちなくなったのを幸い、泡立て器を握り締めて雄々しく宣言するサファイア。
その左腕に抱えられたボウルを、ゼネテスは無造作に払いのけた。

「―――きゃ!?」

がしゃん、とボウルが床に転がる。
零れた生地の甘い匂いが立ち昇る。

「ゼネテス、いきなり何を―――」
抗議しかけた副官の顎を掴み、噛み付く様に口付けた。
否、実際噛み付いたのだ。
下唇に歯を立てて、音がする程強く。
「…ッ」
痛みに歪む表情が、彼の情動を駆り立てる。
棘の感触を掻き消す程に、浅ましい思いが皮膚の一枚下で荒れ狂う。

―――強情な彼女が、痛みに音を上げるのは、自分の前でだけ。
―――弱々しく縋ってくるのも、自分にだけ。
この小さな唇は、彼を呼ぶ為だけに在るのだ。
(他の誰のコトも、歌わせたくねェんだよ……)
だが、若しこれを嫉妬と呼ぶのなら、世界を滅ぼすなんて一瞬だろう。
瞬きする間に起こった衝動だけで、彼は、無限の魂を奪う事が出来るのだから。

…散々に味わった唇から、殊更ゆっくり離れると、濡れた傷から直ぐ新しい血が滲み出すのが見えた。
「…んなトコ怪我しちまったら、お兄様に会いに行けねえな」
「……あ…!」
亡羊としていたサファイアだが、その言葉で我に返って唇を押さえる。
接吻以外で口を怪我する事はまず無いし、彼女に接吻などする物好きは、レムオンの知る限り彼の嫌うこの男しか居ないのだ。
(さあ、どう出る?)
―――お得意のケーキは台無し。綺麗な唇は他所のオトコに傷つけられて。
(これでまだ奴さんに会いに行くっつったら、大したモンだぜ)
しかし、相手がその答えを選べないと見越しているゼネテスは、
「悪かったな、邪魔しちまって。…じゃあな」
一欠片も“悪い”等と思っていない口調で、前髪に触れるだけの口付けを落とし。
悠然と厨房を後にした。

“パセリ、セージ、ローズマリーにタイム……”
甘い匂いに伴っていた筈の歌が、遠ざかる。

歌声ごと唇を奪われた形のサファイアは、男が残した痛みとそれ以上の何かに翻弄されて、力の入らぬ肢体をただ震わせるしかなかった。




 


…第3週の小話の最後に出てきたロールケーキの顛末が、実はこれでした…。
済みません、ホンット済みませんてきろ様;;;
折角「皆がレムオンを祝うので放っとかれて面白くない総司令v」なんて可愛いお題を頂いたのに、私の書く総司令殿はちっとも可愛くなかったですTT
その代わり、他のSSで多少甘さを出したので許して下さい(笑)
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